大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成3年(オ)211号 判決 1991年6月18日

上告人

北明美

右訴訟代理人弁護士

高山利夫

村松いづみ

吉田隆行

小川達雄

佐藤克昭

竹下義樹

籠橋隆明

被上告人

小原浩次

右訴訟代理人弁護士

村田敏行

青木一雄

右当事者間の大阪高等裁判所平成二年(ネ)第九〇七号雇傭関係存在確認請求事件について、同裁判所が平成二年一一月一五日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人高山利夫、同村松いづみの上告理由について

本件雇傭契約は昭和六一年一二月三一日をもって期間の満了により終了したものであるとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原審の認定しない事実を交え独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤庄市郎 裁判官 坂上壽夫 裁判官 貞家克己 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒男)

上告代理人高村利夫、同松村いづみの上告理由

第一 はじめに

原判決は、被上告人の主張、すなわち、上告人と被上告人との間の雇用契約には期間の定めがあり、当該雇用契約は期間の満了により終了したとの主張を容認し、被上告人との間の雇用関係が存在することの確認を求めた上告人の請求を棄却している。しかし、原判決には明らかに次のような理由不備、審理不尽の違法がある。

第一は、本件雇用契約が期間の定めのある雇用契約であったとする認定自体であり、本件の具体的な事実関係に照らして、とうてい充分な吟味がなされているとは言いがたい点である。

第二は、仮に、本件雇用契約が期間の定めのある雇用契約であったとしても、一方で、本件雇用契約が継続することを上告人が期待することに合理性があると推認させる事情があると認定しながら、他方、詳細かつ慎重な評価を加えぬまま、前記の推認を妨げる事情があるとして、本件雇用契約が継続することを上告人が期待することの合理性を否定している点である。

第三は、本件事実関係の本質的要素として重視されるべき被上告人の不当労働行為が、契約法理の形式的適用で満足する原判決の論法により、不問に付されてしまっている点である。被上告人が本件雇用契約の更新を拒否した背景ないし理由には、労働条件の改善を目指す上告人ら講師の自主的団体活動とそれに対する被上告人の嫌悪とが存在するのであって、このことは、原判決自体、更新拒絶理由の一つとして認めており、また、京都地方労働委員会も更新拒絶の意思表示が不当労働行為に該当することを認定し、すでに救済命令を下しているところでもある。上告人らの正当な行動に対する被上告人の報復的な意図の実現を契約理論の形式的適用によって黙認することは、何よりも、憲法に基づく団結権保障の実質を掘り崩す点で重大な問題である。また、それは、労働法規の強行規定や解雇法理の適用を回避する目的でなされる雇用契約の「期間の定め」の濫用という事態に直面しながら、それに歯止めをかけることを意図して長年にわたって展開されてきた、わが国の判例および学説における理論的・学問的努力に逆行し、その理論的蓄積ないし今日的到達点に反するものである。さらに、社会的影響の点からしても、本件の被上告人のように有期雇用契約の契約形式を悪用する風潮をより一層助長するものであり、到底是認できない。

第二 期間の定めの有無について

一 本件雇用契約の期間の定めの有無に関し、原判決は基本的には第一審判決の「原告の従事していた職務の内容、雇用契約成立の際の事情、賃金算出の方法等その他諸般の事情を総合すると、原告と被告との間で昭和五九年三月に成立した雇用契約は、同年四月から一二月までとする期間の定めのある雇用契約であ」ったとの判示を支持している。

しかし、第一・二審判決も事実認定しているとおり、上告人が昭和五九年三月に被上告人に採用された際、雇用期間を明示した書面により雇用契約が締結された事情がなく、また、面接時もしくは勤務開始以降に上告人が被上告人から雇用期間について説明を受けていない以上、わが国の雇用慣行からすれば期間の定めがないのが当然である。それをあえて否定し期間の定めありと認定する以上、この認定を根拠づける納得いく理由が存在しなければならぬにもかかわらずそれがなく、しかも上告人が第一・二審において主張した多くの事実関係について、そのほとんどを理由も示さないまま度外視している。

二 憲法が労働権を保障し、それを具体化する労働法の展開と定着が見られる今日の法秩序の下においては、労働者を犠牲にして経営者側の都合や必要性が一方的にまかり通るような事態は決して容認されるものではない。

本件で問題となる雇用期間に定めを設けることについても、それが労働者の雇用不安を招来するという側面を持ち、また、本件もそうであるが、解雇法理や整理解雇の法理の適用を免れるために悪用される側面が存在することからして、使用者の完全な自由に委ねられているわけではなく、労働権の保障の要請を考慮して、それなりの合理的理由の存在が必要である。まして、本件のように、当事者間に雇用期間についての明確な定めがないとき当事者の合理的な意思解釈を行うにあたっては、労働者保護の要請を充分考慮して慎重に判断すべきである。

三 そこで、第一・二審判決が期間の定めありと認定した根拠として具体的に掲げるのは、

<1>賃金が講義時間に応じて計出され、講義時間によって賃金が大きく変化すること

<2>予備校の生徒数の変化によって講師の人数も調整せざるをえない実情にあること

<3>面接時に授業期間は一二月までと告げていること

の三点である。

しかし、右の各事情はいずれも本件雇用契約を有期契約とする根拠とはなり得ないものである。即ち、<1>については、むしろ賃金が予備校の労働時間たる講義時間に対応するのは当然で、それが何故雇用契約の有期性の根拠となるのか理解し難い。これが期間の定めの根拠たりうるのであれば、およそわが国のパートタイマーの雇用契約はすべて期間の定めのあるものになってしまう。しかも、被上告人は、毎年講師の賃金を昇給させ、かつ、祝祭日などによる毎月の授業日数の多寡にかかわらず、週一回の授業当たりの月額単価に担当科目数を乗じた金額を毎月定額を月給として支給していたが、かかる被上告人の措置はなんとか講師を進ゼミに継続雇用しようとする被上告人の期待のあらわれに外ならない。また講師らの受け取る賃金の年毎の変化は、被上告人の経営上の必要性(予備校としての性格から、年毎に異なる年間スケジュールや授業時間割等が確定される)に基づくことは明らかであり、それを逆手にとって雇用契約の有期性を肯定することは、講師らに二重の雇用不安を押し付けることになり、かような解釈は憲法の理念にも反するものである。予備校としての業務年度が変わってもその講師の業務が企業としての予備校に不可欠なものであり、予備校が存続する限り業務が継続されていく以上、それを季節的業務や臨時的業務と同視して雇用契約の有期性を認めることはできない。さらに、各講師が担当する講義コマ数は、四月初旬に全講師参加のもとに開催されるカリキュラム会議で確定されており、予め被上告人が定めた各クラス毎の授業時間割に基づいて決定していたのであるから、この会議に出席する講師はその時点ですでに当該年度に雇用されることは前提とされていたわけである。すなわち、雇用の継続を前提とした上で労働内容に変更が加えられていたと捉えるのが自然である。

<2>は経営者が雇傭契約に期間を定めたいと考える理由の一つにはなりうるであろうが、それはあまりにも経営者の都合だけによるものであり、第二の二において述べたとおり、経営者の側に必要性が認められるからといって、それを当然容認するような解釈態度は厳に慎まなければならない。生徒数が一年を単位として変化するのは、予備校の外、保育園・幼稚園から大学あるいは専門学校等に至るまで多数存在する。また、この理屈を押し進めれば、一定期間において業務量が変化する仕事についてもそれに携わる労働者の人数の調整という意味ではすべて該当することになるが、原判決は、このようなものについてすべて労使の明確な合意がなくても期間の定めありとするのであろうか。これはあまりにも経営者の御都合主義に偏した乱暴な理屈である。仮りに真実、被上告人が講師との労働契約を有期契約としたいと考えていたのであれば、被上告人としては、講師を採用する際それを明示したはずである。

そもそも、いかなる企業においても絶対に最低必要な労働者の数は存在するはずであり、予備校についてもその業務の性質上一定数の講師数は不可欠である。進ゼミについて言えば、昭和五七年度から同六二年度の生徒数と講師数の変化は左表(表略)のとおりであって、一〇〇名以上の生徒を抱え、教科も分かれ、しかも「少人数制」を宣伝文句として掲げている予備校である以上、どうしても経験や熱意のある一定数の講師が各科目毎に必ず必要なことは一目瞭然である。実際、上告人が進ゼミに在職していた間、進ゼミで設けられたクラスの数は生徒数の異動にかかわらず一定であった。しかも、昭和六二年度からは四条大宮校も開設し、事業を拡張しようとしていたのであるから、むしろ講師は必要であったはずである。また、真に労働者数の調整を図る必要があるならば、整理解雇の法理を適用して判断されるべきであって、人数調整の必要を期間の定めありの根拠とすることは本末転倒である。

<3>は期間の定めの根拠になるどころか、単に「授業」(=講義をする)期間の説明にすぎず、雇傭期間のことについては何ら説明をしなかったことを如実に示すものである。むしろ、被上告人が上告人に対して、継続勤務を要望する旨の言動を繰り返し行っていたことや、上告人が履歴書に記載した志望動機・経済的な必要性等からすれば、当事者双方が長期間にわたる雇用の継続を希望していたことは明白である。

以上からすれば、本件契約がその成立当初から期間の定めのない雇用契約であったことは明らかである。

第三 期間の定めが存在した場合

一 仮に本件雇用契約に期間の定めが存在したとしても、期間の定めを設けた趣旨は厳格に解釈運用されるべきであり、まして形式のみにとらわれて、本件のように不当労働行為として利用されることを許すならば、裁判所は人権救済の任務を放棄することになってしまう。

二 原判決も指摘しているように、最判昭和四九年七月二二日民集二八巻五号九七二頁及び最判昭和六一年一二月四日裁判集一四九号二〇九頁に示された法理が、予備校講師の雇用契約にも原則として当てはまることは首肯できる。しかるに原判決は、本件雇用契約が継続することを上告人が期待することに合理性があると推認される事情を認定しながら、その推認を妨げる事情として、(ア)上告人の勤務形態が非常勤の形態であったこと、(イ)被上告人の専任講師になるようにとの申し出を上告人は断った、(ウ)講師数の変化、(エ)講師のかけもち勤務と時間割の決定の仕方、(オ)一年ないし三年程度で退職している講師の方が多い、(カ)予備校の教育は企業としての要素が大きいことを掲げ、さきの契約継続期待への合理性を否定している。しかしかような解釈は以下に述べるとおり明らかに誤りである。

三1 まず、(ア)について、原判決は上告人の勤務形態がいわゆる非常勤の形態であったと認定しているが、本件係争に至るまで、被上告人が経営する進ゼミの講師に常勤、非常勤の区別がなく、上告人はもとより他の講師においても「非常勤講師」という言葉は一切使用したことがなく、本件解雇当時毎日勤務する講師が存在しなかったことはこれまで主張したとおりである。しかも、毎日勤務していないとしても、そのことから当然に業務実態にかかわりなく、「拘束性」がないことが導かれるものでないことは明らかである。上告人は、担当授業やその準備にとどまらず、授業時間以外の生徒指導、次年度の入学案内パンフレットの作成協力や、次年度使用するテキスト選定、作成、四月と九月に実施されるクラス分けテストの問題作成、監督、採点など広範な業務を被上告人の指示、依頼のもとに行っていた外、カリキュラム編成の相談に応じるなどしていた。従って、上告人の業務は、原判決が判示するような「原則として授業時間にだけ拘束され」ているにすぎないものでは決してなく、予備校の業務の内会計・経理業務を除く業務全般に及んでいたものである。従って、上告人は、勤務日以外にもかなりの時間を右業務のために費やしていたものであって、毎日勤務しないとはいってもその上告人の勤務は拘束性がきわめて強いものであった。原判決はかかる上告人の勤務実態を十分吟味していない点において重大な誤りがある。

2 次に、(イ)については、上告人が被上告人の毎日午前午後を通じて勤務して欲しい旨の申入れを断ったことは事実であるが、右事実をもって、上告人が本件雇傭契約が継続することを期待することに合理性があると推認するについて、その妨げとなる事情と解することはできない。即ち、上告人が、被上告人の右申入れを断った以降においても、被上告人は、上告人に対し、継続雇傭を期待させる旨の発言を繰り返し、上告人においても、その都度「ずっと勤務します」旨返答していた外、昭和六〇年、六一年度の開始時には双方何らの意思表示もしないまま勤務関係が推移し、六〇年度には被上告人が上告人を特にクラス担任に依頼して一年間を通じて担任手当てを支給した上、毎年次年度のテキストの選定、作成を依頼しているのである。従って、上告人と被上告人の間には上告人が前記申入れを断ったにもかかわらず、当然雇傭関係を継続するとの期待があったことは明らかである。

3 さらに、(ウ)については、確かに被上告人が経営する進ゼミにおいては各年度に勤務した講師に多少の変動はあるものの、前記第二の三のとおり、進ゼミにおいても予備校として存続、維持する上で一定数の講師は必要不可欠である。被上告人が京都府地方労働委員会に提出した別紙資料によれば、新ゼミにおいては、生徒数が五一名であった昭和五一年度においても講師が一一名在籍し、生徒数が前年度の半数以下となった同五五年度においても一四名の講師が在籍しており、同五〇年度を除き国語科の講師が必ず在籍している。しかも、上告人が、同六一年春ころ被上告人に対し労働条件の改善等について要求をするまで、被上告人はその勤務ぶりに満足し、国語科の中心講師として信頼していたものである。

従って、原判決が判示する右の事情は、上告人と被上告人との間の雇傭継続の期待を何ら妨げるものではない。

4 (エ)について、まず、時間割の決定の仕方であるが、毎年どのようなカリキュラムを組み、どの教科を重点的に行うかは、被上告人の一存で決められ、その枠内で何曜日にどの教科を行うかについての調整はあったものの、それはあくまでその限度にとどまり、およそ講師らの自由な要求が受け入れられるものではなかった。また、講師の中には、他の塾等とかけもちする者もいたが、少なくとも上告人の場合は進ゼミの労働が唯一の生活の糧を得る手段であったのである。更に言えば、かけもち勤務をする講師らは進ゼミから得られる収入では生活できず、かといってカリキュラムなどの関係で進ゼミの担当講義を増やすこともできないため、かけもち勤務をせざるを得ないという実態に原判決は全く目を向けていない点が問題である。

5 (オ)については、前掲の被上告人が地労委に提出した別紙資料によればその誤りは明白である。確かに一年ないし三年で退職していく講師も存在するが、被上告人によって解雇された者や嫌がらせによって退職に追い込まれた者なども少なからず存在する以上、退職の理由や経緯を精査せず一律に論じることは不合理である。別紙資料によると、昭和五〇年以降同六一年の本件解雇時までの一二年間をみても、関哲(六年)・野元久義(一二年)・伊藤彰(一一年)・永井好文(六年)・錦見孝志(五年)・谷村操(八年)・松井嘉徳(六年)と講師らは長期に勤務しているのである。更に、同六一年一二月に解雇された上告人をはじめとする講師らの勤務年数は、同年四月の交渉後に就職した講師を除いては一~二年の者はおらず、講師らが本件の要求行動を起こさなければ、三年を超えて勤務し得たことは明らかである。なお、わが国の終身雇用制自体が、今日ではもはや一般的な雇用形態であるとは言えなくなってきている点に注目する必要がある。労働者の平均勤続年数は、昭和六三年の数値では、全労働者で一〇・六年、男子で一二・二年、女子で七・一年となっており(平成元年度版『労働白書』)、一般企業において期間の定めなく雇用されている労働者の少なからぬ部分が、同一の企業で定年まで勤務することなく、転職等により比較的早期に企業を去っていく実態を直視すべきである。

6 更に、(オ)の事実を継続勤務への期待を否定する根拠の一つとすることは結局は、経営者側の都合に偏し憲法の労働権確保の理念を全く欠落させることになる。裁判所は職務内容が営利目的の要素の強いものであれば、経営者は労働者を不安定な身分においてもかまわないとでも言うのであろうか。予備校が企業としての要素が強いからこそ、経営者はより多くの利潤を得べく、講師を教育者としてではなくその予備校に生徒を集める看板として自己の利潤追求の道具に扱い、本件のように本来の講義時間以外の時間をも拘束して働かせるのである。むしろ本来の教育の場であれば、労働者たる教師が自己の理念に基づいて自主的に教育業務に尽くす側面があるだろうが、予備校は企業であるからこそ労働者たる講師に対する拘束性が逆に強いのである。

以上述べたとおり、原判決が指摘した事情はいずれも上告人が被上告人との間の雇傭関係が継続するものと期待することを妨げるものではない。現判決は、上告人の業務の実態を十分吟味することなく、前記事情を誤って認定、評価したものである。

第四 結論

よって、原判決には理由不備、審理不尽の違法があり破棄されるべきである。

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